Geist Enclosure

私たちの存在は偶然から発したものか、必然から生まれた結果か。

人間社会のほとんどの事象は必然から成り立っている。日々の生活や社会的な営みは、基本的に想像可能性(必然性)の範疇で執り行われている。さもなければ全くのカオスであり社会生活を営むことは不可能である。日常的な環境や自然も予測可能性のなかに含まれており、明日の天気や四季のサイクルなどを予測する。

 

しかし、時として全く予測不可能な出来事が個人、社会、自然とさまざまなレベルで起こる。これらは偶然として認識され、幸運または不幸な出来事として振り分けられる。新型コロナなどは偶然の産物としての分かりやすい例えだと言える。

この偶然性とは一体なんのことか。私たちの存在は理由もなく偶然により世界に投企させられ死を迎えるその時まで、予測不可能な幸不幸に翻弄させられ続けるのか。

しかし、一見偶然に見えること、因果関係が見出せないことが、往々にして人生に深く関わってくることもまた事実である。

 

偶然とはその因果が認識できない必然であるとも言われる。確かに、すべての事象は必然であると言えるかもしれない。ここでは偶然の必然性について深くは語らないが、私が、今、ここで、生きていること、その根拠は存在しないのではなく、過去と未来の流れのなかの一時点として顕現している。そのアルケーを伺い知ることはできない。

その理由を知ることができないからといって、その流れ、必然から逃れることはできない。必然は偶然を装いながら私たちの目の前に現われる。死、病気、自然災害、思ってもみない幸運など。

 

日常の社会生活では偶然性をいかに排除し、環境を整備することが文明社会の題目であるといえる。現代社会のテクノロジーはあらゆるレベルで観測し、データを取り込み新たなシステムを構築し、管理していく。しかし現実に私たちの住む社会はより一層混沌とし、未来を予測することなど到底不可能なことのように感じられる。そのような中にあって、目の前の不条理をどのように受け入れ、超克していくべきなのか。

 

今回の展覧会では、”社会的な正しさと私の思う正しさとのずれ”をテーマにしている。それを認識することで、現代テクノロジーに依存した社会システムとは違った方法を、思考、倫理、行動規範の選択の余地として持つことができるのではないか。それはポスト・トゥルースと何が違うのかと問われると、起きている偶然的事象を観察し、偶然を必然として捉えること、必然的存在としての個人の生を意識し、それをさらに超え出ていくこと。必然的存在として認識するということは、その因果すべてを受け入れるということである。個人を超えた大きな流れとして自身を認識することで、新たなストーリー、世界を呼び込むことができると信じている。

本展覧会も、その一実践となれば幸いである。  

三野綾子